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ホラー映画に深い関わりのある女優さんを毎回紹介していくこのコーナーですが、今回はクラシック女優の紹介という事で、ちょっとかしこまってみようかと思います(笑)。まあ、別に毎回ふざけているわけでもなく、もちろん真面目にやっておりますよ、ええ、ハイ(汗)。ということで、今回紹介するのは1920年代に活躍した女優メアリー・フィルビン。ロン・チェイニー主演の名作「オペラの怪人」('25年)で若きソプラノ歌手クリスティーヌ役を演じた女優さん。彼女が怪人のマスクを取ってしまうショッキングなシーンは余りにも有名ですね。
他にも、コンラート・ファイト主演の怪奇メロドラマ「笑ふ男」('28年)で目の不自由な娘デアを演じた事でも知られています。日本では劇場公開作が少ない人ですが、当時ハリウッドではかなりの人気女優でした。リリアン・ギッシュやメアリー・ピックフォードといった当時の“清純派”スター、つまり子供のような愛らしさ・無邪気さを売りにした“永遠の処女”路線として売り出された女優さんだったわけです。
当時のハリウッドは“イット・ガール”と呼ばれたクララ・ボウやノーマ・シアラーといった自由奔放な新しい世代の女優が台頭しはじめた時代。でも、その一方で19世紀的な価値観もまだ根強かった、いわば狭間の時代だったと言えるでしょう。メアリー・フィルビンという人は、公私に渡ってその旧世代的な価値観の犠牲となってしまった女優さんだったようです。
彼女の両親はかなり古風で偏ったモラル観念の持ち主で、幼い頃から教会と聖書の価値観が全てという教育を彼女に強いたとのこと。特に母親は非常に威圧的な人だったらしく、彼女は終生母親の支配下に置かれていたと言われています。彼女が女優になりたいと言った時も、もちろん両親は猛反対。ただ、メアリーにとって幸運だったのは、彼女の大親友がユニバーサル映画の創業社長カール・リームルの弟ジョセフの娘だったこと。両親はジョセフ・リームルと非常に親しく、リームル家の後ろ盾があるならばということで娘のハリウッド行きを認めたわけです。ただし、両親も同行するという条件付で。ハリウッド人種の堕落した価値観に娘が染まらないように監視するというわけです。なので、メアリーの撮影現場には必ず両親の姿があり、彼女に声をかけるような若い男優やスタッフを見つければ即座に追い払っていたとのこと。
そんな彼女も生涯に一度だけ、両親に抵抗を試みたことがありました。それが、後にプロデューサーとなったポール・コナーとの婚約。両親に反対されることは分っていたので、周囲には極秘のままポールと婚約したメアリーは、映画「笑ふ男」の完成披露試写が大盛況に終わった直後、このタイミングなら両親も認めてくれるに違いないと思い切って婚約を報告。ところが、それまで上機嫌だった両親は豹変し、烈火のごとく怒って猛反対したとのこと。ポールを呼んで話し合いをしたところ、父親は彼の誠実さを認めて結婚を承諾しました。しかし、母親は依然として猛反対。最大の理由はポールがユダヤ人だったこと。敬虔なアイルランド系カソリックの母親にしてみれば、キリストを裏切ったユダの末裔であるユダヤ人と結婚する事は死んでも許されないことだったわけです。もちろん、ユダヤ人がユダの末裔だなんて考え方そのものがナンセンスで、よくよく考えればキリストもユダも同じ民族であったわけですが、当時はそのような偏見を持っているクリスチャンも少なかったんでしょうね。結局、メアリーは母親の猛反対に根負けし、泣きながら婚約を破棄しました。
さて、女優としてのメアリー・フィルビンについて言及すると、彼女には大きなハンデがあったと言えるでしょう。それは決定的な演技力不足。リームル家の知り合いということだけでスターの座に上りつめた彼女は、演技の勉強を全くしたことがなかったわけです。それは彼女自身も認めているところで、“優れた監督の指導があって初めて良い演技が出来る”と当時の取材で語っています。その最も顕著な例が「オペラの怪人」にまつわる撮影秘話でしょう。
この「オペラの怪人」は俳優出身のルパート・ジュリアン監督作として知られていますが、実は主演のロン・チェイニー自身が演出をしたパートがあります。それが、あの有名なマスクを剥がすシーン。オルガンを奏でる怪人の背後から近寄ったクリスティーヌがマスクを剥がし、醜い顔をさらして振り返った怪人の姿に泣きながら絶叫するという場面ですが、この撮影がなかなか進まなかった。というのも、演技力のないメアリーが、“泣きながら絶叫する”という演技をうまく出来なかったわけです。NGの連発に苛立ったジュリアン監督は、怒鳴り散らしながら撮影を中断。“今日の撮影はこれでおしまいだ”と一言残して帰ってしまったとのこと。ところが、ロン・チェイニーはスタッフに現場に残るように秘かに指示し、監督が帰ってしまったのを見計らって撮影を再開しました。独裁的で気の短いジュリアン監督に反発していたスタッフは、人望の厚いチェイニーの指示に全員一致で参加し、たまたま当日は両親が現場に来ていなかったメアリーも残ることにしました。
こうして続行された「オペラの怪人」の撮影。チェイニーの背後から近づいてマスクを取るメアリー。その時、チェイニーは周囲に聞こえないような声でメアリーを侮辱するような言葉を口にします。それを聴いて怒りと屈辱に身を震わせるメアリー。さらに追い討ちをかけるようにチェイニーは彼女を突き飛ばし、メアリーは泣きながら悲鳴を上げて倒れこみます。そこで撮影はカット。明日の朝一番で社長や監督に抗議するつもりだったメアリーに近づいたチェイニーは、彼女に“さっきの言葉は本心ではなかった”と謝罪し、撮影を終わらせるためには仕方なかったと説明。これをきっかけに、メアリーはチェイニーを父親のように慕うようになったそうです。晩年のインタビューでも、彼女はチェイニーに対して恋愛感情すら抱いていたことを告白しています。ただ、逆に言うと彼女はそこまでしなければ周囲の納得する演技が出来ないくらい、女優としては未熟だったという事でもあるんですよね。
その後、「バットマン」のジョーカーの元ネタとしても知られる「笑ふ男」での純粋無垢な演技が評価されたものの、やはり時代の波には逆らえず1929年に引退。映画界は自由奔放で自立した女性像を好んで描いていくようになり、彼女のような古いタイプの女優は明らかに時代遅れでした。また、ピューリタン的価値観のもとで育った彼女にとっても、“現代のバビロン”と揶揄された当時のハリウッドには居場所がなかったであろうことは想像に難くありません。
引退後、老いた両親の面倒を見る生活を続けた彼女は、生涯独身を貫きました。両親が亡くなってからは、教会と家を行き来するだけの毎日を過ごしたというメアリー。そんな彼女が死ぬまで大切にしていたのは、生涯で唯一愛した男性ポール・コナーから送られた数々のラブレターでした。婚約を破棄した後にも、手紙は送られてきていたそうです。そのポールが1988年に亡くなった際、彼の書斎デスクの抽斗(ひきだし)から大切にしまわれていたメアリーの手紙が発見されました。1989年に行われたインタビューでその事実を知らされたメアリーは、取材記者の前で泣き崩れたとのこと。その4年後の1993年、メアリー・フィルビンは90歳でこの世を去っています。
1902年7月16日、アメリカ・イリノイ州シカゴ生まれ。
フィルモグラフィー
愛の太鼓('28)
笑ふ男('28)
オペラの怪人('25)
メリー・ゴー・ラウンド('23)